生活史研究家で「昭和のくらし博物館」(東京都大田区)館長の小泉和子さん(91)は太平洋戦争の最後の1年、疎開と空襲で命を脅かされながら住まいを転々とする日々を送りました。
あの時から80年あまり。現代までの暮らしの変遷をどう感じているのか、話をうかがいました。
1944年8月15日、敗戦のちょうど1年前に、私は学童集団疎開に出発しました。東京都小石川区(現・文京区)の明化国民学校の5年生でした。
学童疎開は戦局の悪化で本土空襲が始まり、足手まといになる子どもを都会から避難させるために行われました。縁故疎開と集団疎開があり、縁故疎開は親戚などのつてで個人的に子どもを預けるもの。集団疎開は学校単位で子どもたちが移るものでした。
出発の15日朝、父が「生き別れになるかもしれないから写真を撮っておこう」と言って、近所の写真館で家族写真を撮りました。この写真は母が肌身離さず持っていたので、空襲でも焼けずに残っています。
区ごとに行き先が割り当てられ、私たちが向かったのは宮城県の鳴子温泉。旅館が宿舎になりました。
食糧難の時代、大勢の子どもがやってきて、調達も大変だったでしょう。食べ物は良くありませんでした。家から送ってもらった芋けんぴやエビオスなどの胃腸薬をかじっていたこともありましたが、すぐに底をつき、男の子は絵の具までなめていました。
空腹を紛らわそうと、私はお菓子の絵を描きました。絵が得意だったんです。渦巻きパンやきんつば。影を付けて立体的に描いたら、みんなが欲しい欲しいって。ノートもないので、小さく切った紙を手に来るんです。
別のクラスの男の子に桜餅を…